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創造性とは生きるための原動力

私たち「人」は、少なくとも「この国」では、ただ生きていくだけならばいくらでも可能な環境に身をおいています。「ただ生きるだけ」であれば、誰でも実現可能なのです。

それでも私たちは自分の将来が「より豊か」になるように自分を磨くことをやめません。自分を磨くことと、携わる仕事などで「より良い」結果を残すための「努力」を惜しまないものです。それによって対価を得ているからということはもちろんですが、それだけではありません。私たちは何事においても「自分が納得したい」ものです。ある事柄を「職」として身につけているのであれば、それが自分の「誇り」であるのであれば、それをどうやっても自分が納得できるまで突き詰めたいと考えるものなのです。

それは「責任」、「プライド」、「こだわり」などさまざまな言葉で表現できる気持ちです。自分自身が納得できることが大切で、それによって仕事の評価は確かに上がるかもしれませんが、ホンネの部分ではそんな打算はどうでもよく、ただ自分が納得できないのは「嫌だ」ということです。たとえそれが仕事の「要件」を満たしたものであっても、です。多少手を抜いても誰もわかるわけがないのに、それによって仕事の評価が落ちるわけでもないのに、それでも自分のプライドを貫きたいという「意志」。それは「ただ生きるだけでは足りない」ということの現れです。

楽をしようと思えばいくらでも楽できる「余地」はあるかもしれない。だけど、そのようなことに「甘えない」という選択は、それ自体が自分を発奮させる選択であり、方程式では解くことができない人の「意志のチカラ」です。「やる」と決めたら「やる」、自分の誇りにかけて、自分が手の届く範囲の仕事は行う。それが「プライド」です。そのようなプライドを発揮しているとき、私たちは「創造性」を発揮しているともいえます。

創造性とは、なにも「ゼロからなにかを創る」ということのみに特化したものではありません。必要なことは「工夫する」ということと「自分の意志を貫く」ということです。自分の意志を貫くことで、私たちは「生きている実感」を抱くことができます。「生きる」ということは、こだわりを失わないということでもあります。「こだわる」ことで、私たちは生きている実感を得ることができるケースもあるのです。

今の時代、「合理化」、「効率化」という言葉はさまざまなところで免罪符のように使われてきました。「全体最適化」という言葉も、今日の組織では当然のように使われています。それによってたしかにコストがカットされ、他の可能性に投資できるということもあるのですが、ただそれだけではないのです。大切なことは「人として」どのように振る舞うのかということです。

自分にあてがわれた仕事をどのようなこだわりでこなすのか、それは社会人にとっては自由な「選択」です。凝りすぎてもいけないのですが、そのバランスのなかで、どのようなものを残したいかということが大切なのです。

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