クオリティがすべてではないということ
何かを「作る」、何かを「表現する」。その時点でその作品には「クオリティ」がついて回ることになります。それが芸術作品だとしても、何かの展示物だとしても、それらは傍目から見た「完成度」というものがついて回るのです。
「完成度」というものには一定の基準はないものです。それが社会的責任としての「建築物」などであったり、「要件」が定められた上での製作物などであったりするのであれば、そこに対して「基準を満たしているか、しっかりとガイドラインを順守しているか」ということで「評価」されるものなのですが、芸術や何らかの展示であるものは、なかなかそのような評価ができるものではありません。
一般的に、プロであるかそうでないかの違いというものは、「細かいところまで気を配れているかどうか」ということです。デザインにしても、音楽にしても、人が、気がつけるかどうかわからないほど細かい部分、とても繊細な部分に注意できる人が「プロ」です。展示物にしても、絵画、彫刻にしても、音楽にしても、ただ感性を叩き込むだけでは済まさず、細かいところまでブラッシュアップできる人が「プロ」なのです。
ただ、文化祭においてそのような細かい部分にまで気を配ることが必要かというと、そういうわけではありません。学生が感じているもの、考えていること、それらすべてを披露する場、自由な発想で、誰かに何かを伝えたい、誰も感じ取ってくれなくても、「そこでカタチにする」ということが重要なのです。「クオリティ」を恐れては何も作ることはできません。クオリティが高くないから作れないというのであれば、何もはじまりません。文化祭とは「何かを作り上げる場」です。何かを作り上げて、自分の考えや想いをそこで表現する場なのです。
また、「プロではないから」こそ作ることができるものがあります。プロではないから思いつくことができるものがあります。「プロ」とはその「道」で食べていくことができる人のことを指します。誰かがそれに「投資」する、誰かがそれを「買ってくれる」、そのような状態になってはじめて成立するのが「仕事として」の、その「道」です。そのようなことを考えると、プロであるということは「責任」がついて回るもので、「自由」からは隔絶されてしまう状態なのかもしれません。だからこそ、学生諸氏には「自由」な発想で物事を考えてほしいのです。
「責任」から生まれるものは確かに大切です。責任があってはじめて成立するものもたくさんあります。「趣味」で建築をする人というのはあまり聞いたことがありません。また、趣味で建築された建物が安全基準を満たしているとも考えられません。ただ、文化祭というフィールドから自由に発信されるものもとても有意義で、大切です。「自由」な発想、何にも縛られないクリエイティビティ、そのようなものはすべての「創作」の原点です。そこに立ち返ることができる文化祭という機会を、大切にした方がいいのではないでしょうか。