共同で作り上げるという連帯感
その「創作」、その「制作」が、自分ひとりでは成り立たないような場合、誰かと共同で行う場合、ただ「創る」という感覚だけでは物事がスムーズに進まないということも考えられます。
それは巨大な造形であったり、多岐に渡る展示物であったりするかもしれません。そのようにして連携して作り上げるものはたくさん考えられます。「モノ」としてそこに存在するわけではないかもしれません。もしかするとそれは「合奏」、「合唱」などの「瞬間の芸術」かもしれません。どのようなものであれ、誰かと「連帯して作り上げる」ということはとてもむずかしいことです。
人の「意志」というものは、人がどうこうできるようなものではありません。やる気を引き出すということ、人の行動を促すということは、ときには「正論」だけではどうしようもない場合もあるということは、少し社会を経験した人であれば誰でも知っていることです。「人の気持ち」、「人の意志」というものは簡単には動かせるものではなく、例えば「多数決」で決めたことであったとしても、それに「反対」した少数派が納得しているわけではないかもしれないということ、それでも「全員」で取り組む必要があるということ、それが「連帯」の難しさです。「共同で」とか、「みんなで仲良く」とか、「協力しよう」ということは「言葉」ではいくらでも言えるものです。そしてそれが「正論」である場合がほとんどです。
ですが、「そうしたくない」という人には、その「理由」があるのです。その「理由」がなんなのか、なぜモチベーションを失った人がそこにいるのかということを考えなければ、本当の「連帯」は生まれません。一クラス20人から30人いたとして、その人たちはそれぞれが独立した意志を持っているのです。それぞれが大切にしていることを持っていて、自分の正義、自分の意志で動いています。たとえ「全体で決まった」ことであったとしても、たとえそれに従うのが「正しいこと」だとしても、それだけでは「納得」することはできないこともあるでしょう。
本当の連帯とは、そのような人であっても「納得」できるようにするということです。反対している人、反発している人がいるのだとしたら、その人が納得できる説明をすること、本当の意味で「全員」で取り組むのだとしたら、誰一人欠けてはいけないのだとしたら、そのように「仕組む」こと、それが実現されるように努力することが大切です。正論がすべて人を動かせるわけではなく、「人によって正しいこと」は違うということです。人によって正しいことが違うのであれば、その人が納得できる何かを用意してあげるか、その人のモチベーションが上がる何かを用意してあげる、あるいは説得してわかってもらうことが必要です。「連帯する」ということは、「本当の意味」で成し得ることが難しいものです。ただ、それを達した際の充足感は、誰かが欠けたときの何倍にも及ぶものでしょう。