学校の規則と創造性の狭間
文化祭というものは人に対してさまざまな「自由」を感じさせてくれる場です。普段の校則から外れたもの、普段の学校ではとてもではないけれど展開できないような芸術を発信する機会です。
それでも、そのイベントの根幹には「学校」があるもので、イベントを主催しているのも、責任を持つのも「学校」であるわけですから、最低限のルールはそこに存在しています。一般的に中学、高校は特に「校則」や「規則」を守ることが重んじられます。人格形成においてもティーンエイジャーという時期は大切な時期であり、「人」として、「将来を見据えて」ということを繰り返し考えることになる時期でしょう。
そのようなティーンエイジャーの時期というのはいわゆる「多感」な年頃と呼ばれます。その時期は「人と違ったことをやりたい」であるとか、目立ちたいといった感覚、さらには少しでも人よりも優れたことをしたいということや、さらには恋愛に至るまで、ひとつひとつのことがとてもセンシティブに感じられるものなのです。ティーンエイジャーに対して「ルール」というものが重要視されるのはそのような理由もあります。その年頃に「決まりを守る」ということを徹底して学んでもらうことができなければ、後々の生活に支障が出るだろうということです。
「自由」に見える大人の社会は、実は学校などと比べるよりもとても深い「ルール」に満ちていることがわかるのではないでしょうか。「ルールがないことがルール」であるという側面もあるかもしれません。それは「自由であるが故の責任」が問われるということです。自分の稼いだお金で何を買おうと自由、何を考えようと自由、自分がしたいこと、自分が歩みたい道を、自分の責任で進むことができるものです。ただ、社会人として「納税」する必要もあります。「人として」責任をまっとうするということには、「意志」のチカラというものが必要な局面も多々あります。「意志」を持ち、さらに「実践」するということが必要になります。そのような「実践」は「訓練」が必要なことでもあるのです。
そのための「訓練期間」が、「学生の期間」と捉えてもいいでしょう。学生であるということはその先にある「自立」のための修練の時間であるということです。ですから、一見「自由に見える」文化祭においても、ある一定のルールはあるもので、それは社会的な常識から具体的な展示物の規則に至るまで、「要項」としてまとめられているものです。
そのような「縛り」を順守した上で創造性を発揮するということは社会でも求められるものです。どのようなものにでも、どのようなことにでも、「決まり」というものは存在します。それを守った上で、自分たちができる範囲で、できることをするということは、ただ楽しむだけではなく、「枠の中でどのように工夫するのか」という、将来求められる「応用力」を磨くことにもなるのです。文化祭でどれだけ工夫できるのか、どれだけ考えたのかということは、きっとその先の将来に役に立つことでしょう。