文化祭の経験は宝になる
文化祭の楽しみ方はひとつではありません。文化祭での「自分のあり方」というものをひとつに絞る必要はないのです。例えば「傍観者」でいる事は多くの人の反感を買うでしょう。ですが、自分がそれでいいならそれでいいのです。
なにかクリエイティブなことをしなければいけないということはないのです。別に文化祭だからといって、なにかクリエイティブなことをしなければならないという決まりはないのです。大切なことは「普段とは違う環境でみんなが活動しているということです。普段通っている学校が、そのときだけまるで違う様相を呈しているということです。そこで活動する同輩の姿、そこで葛藤する同輩の姿、それらの姿、様子を見ていると、なにか感じることが出てくるのではないでしょうか。
人によって「学校」に対する気持ちは違うものでしょう。学校が好きという人もいれば、どうしても学校が好きになれない人もいることでしょう。それは個人の価値観ですし、誰かが強制するようなことではありません。どのような環境で、どうのように感じ、なにを考えるのかは「個人の自由」だからです。ですが、人が本気で取り組むこと、人が本気で取り組む姿勢というものは少なからず何かの影響を人に与えるものです。イベント自体に興味がなかったとしても、そのイベントに参加する人、真剣に取り組む人の姿を見てみましょう。何か感じることがあるはずです。
みんなと同じことをしなければいけないという風潮に違和感があるのであれば、それはそれであなたの「個性」でしょう。誰も否定することはできません。ですが、真剣に取り組む人のことを笑うことは許されません。参加したくない、真面目にやるのがバカみたいに感じるということは、それは自由です。ですが、真面目に取り組む人を笑うことだけは絶対に許されないことなのです。
「自分ならこうやる」、自分なら「もっとこのように工夫する」、そのように考えることも自由です。そして、もし気が向いたら自身もその取り組みに少しずつでも参加してみればいいのです。参加してみることで、そのイベントの価値がわかるかもしれません。かけがえのない思い出が、ひとつ増えるかもしれません。
その時代にしか経験できないことだからこそ、価値があるのです。その時代にしか残せない記憶だからこそ、大切な思い出になるのです。大人になってからではやり直すことができないからこそ、まずは「参加する」ということに意味があるのです。文化祭のような「自分たちが主体になって動くイベント」というものは大人になってからではなかなか巡り会えるものではないのです。「やり直したい」と考えても、そのようなことができるわけもないものですから、そのときにしかできないこと、経験できないことというものは、率先しても取り組むことが大切なのです。
文化祭に対して疑問を持っているような人は、まずは参加するだけ参加してみましょう。「意味」は、成長した「自分」が決めるものです。