完成することのカタルシス
すべての「創作」には、「終わり」が必ずあります。ずっと完成しない芸術作品、作り続けることに意味がある芸術作品というものも存在するのかもしれません。ただ、それを「誰かに見せよう」と考えている時点で、その「完成形」は必ずあるのです。
それがどのようなものであれ、どのような作品であれ、必ず「作った人」がいます。何かを作るということは不思議なもので、無我夢中でその創作に取り組んでいる場合にはその過程、それにかけた時間というものを記憶していない場合もあります。いったいどれだけの時間をかけてそれを作り上げたのか、いったいどのようにしてそれを完成させたのか、その創作が「個人」に依存すればするほど、その過程というものは当人の時間感覚を飛び越えるものになるのです。
それが「夢中になる」ということです。「時間」という概念から自分が解き放たれる瞬間です。人が存在する時間の速さというものは、万人に等しく一定です。自分が1時間を過ごしたのだとしたら、世界中の誰もが同じ1時間をそれぞれのスタイル、それぞれの方法で過ごしているのです。ただ、その「1時間」の「質」は人によって違うもので、「退屈な1時間」なのか、「充実した1時間」なのか、「1時間しかなくて焦った」という感覚なのか、「全然1時間では足りない」ということなのか、それぞれの「1時間」があるものです。その中でも何かに夢中になった時の「1時間」というものは、「あっという間」であるということです。「あっという間」であるどころか、「1時間経過した」という自覚さえ持てないかもしれないということです。
無心になるということはそのようなことで、よく言われる「寝食を忘れて取り組む」ということはそのようなことです。寝る間も惜しんで、何かを口にすることも忘れるということは、「没頭」しているから成せることです。ある意味人の生理的な現象を乗り越えるようなもので、それらの「本能」に、「集中すること」が勝ったということなのでしょう。そのような「没入する」という感覚自体、集中するだけでは得られるものではなく、本当に「その創作」に身も心も囚われた場合のみ、成立するのです。
そのような「創作」、「制作」は、その終わりを迎えた時、その作品が「納得」できるものであればあるほど、得られる「カタルシス」が大きいものです。その創作の時に考えていることは、「その作品、自分の中から出てきたその作品を早くこの目で、この耳で、確認したい」という気持ちなのかもしれません。そのような感覚が、「集中」を呼び、時間を忘れて没頭できる「創作人」を呼び起こすのでしょう。それが「完成する」ということは、「自分の中から何かが出てきた」ということでもあります。その瞬間に得ることができるのか「カタルシス」です。その感覚の虜になれば、また何かを作ろうであるとか、また新しい自分の可能性を感じたいという「創作意欲」につながるのです。