準備の過程こそが楽しい
なんと言っても文化祭の過程の中で楽しいのは「作り上げる過程」でしょう。何かを作る、「準備する」という過程こそが、「文化祭そのもの」と言ってもいいかもしれません。
「作る」、「創る」ということには一種の「カタルシス」が伴います。「カタルシス」というのは「心の充足感」「達成感」のようなもので、「作る」、「創る」ということに関してどの時点でそれが得られるのかというと、「それが完成したとき」ということになります。何かを作り上げるという行為自体が、そのような「カタルシス」を得るためと言ってもいいほど、それが完成したときの充足感というものはなんとも言えないものです。
その「充足感」を高めるためには、それに関わった人が「サボらなかった」、「真剣に取り組んだ」、「妥協しなかった」など、関わった人すべてが「納得」できることが大切です。「人の心」というものは正直なもので、「自分はたいしたことはやっていない」であるとか、「サボってしまった」などという少しの罪悪感はずっと心の中に残るものです。その罪悪感こそがこの「達成感」を阻害する最大の要因です。いくら自分を納得させようとしても、いくら自分をごまかして達成感を得ようとしても、どこかで「手を抜いたこと」は残っているものです。手を抜いてしまった記憶がその物事に対する達成感を得るための邪魔をしてしまうということです。
そのような状況ではそれらの準備のためにかけた「時間」もなにも、その罪悪感で埋め尽くされてしまうもので、サボってしまった、手を抜いた、怠けた、という「記憶」だけがずっと後を引くのです。複数の人でひとつの作品を作り上げるのであれば、それはひとりひとりのチカラが積み重なってはじめて成立することです。共同作品ではひとりのスーパーヒーローはいらないわけで、自分だけがサボった、自分だけが手を抜いたということも同様に忌避すべきことです。
このような「自由」で、かつ「全員のチカラを必要とする」物事に取り組むことは、その過程、その経験こそが大切なものです。その経験はそれに関わった人、ひとりひとりの心の中に刻まれるものですし、その記憶、その思い出こそが、文化祭で生徒が得るべきもの、学ぶべきことなのです。学校の勉強とは違い、仕事とは違い、「結果」などというものは半ばどうでもよく、「妥協しなかった」、「全員で乗り越えた」、「仲良くなれた」などという「経緯」と「その記憶」こそが、文化祭の宝なのです。
その先にある「完成した時の達成感」というもので、その記憶は締めくくられるもので、それが自分にとって「良い記憶」になるか「どうでもいい記憶」になるのかはその「経緯」、「過程」が握っているのです。そして、その物事に対して真摯に取り組んだ「自分」がそこにいなければ、それらの記憶は後々にまったく輝かないものになってしまうでしょう。文化祭で学ぶことは、「自由の中」でどれだけの達成感を得られるのかということなのです。