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自主性こそが文化祭の宝

「学生」でいる頃は「自由」に憧れたものです。道を行き交う「大人」を見て、自分も自分の責任で、自分の資産で、自由に生きてみたいということを願うものなのです。

ただ、そのように願っても願わなくても、成長すればいつかはそのような生活に足を踏み入れることになるものです。それは実際に知識や経験としての「成長」ではなく、誰にでも等しく流れる「時間」の経過に伴う「成長」ということです。何も学んでいなくても、多くの学力を身につけたとしても、「時」がくれば「自立」する必要があるということです。

「自主性」という言葉は、自由に見える「大人」に対しても重要な言葉です。自分の責任で自由に生きているかのように見えた「大人」の人たちも、実際は「会社」や「組織」の中で「与えられた責任」に従って「仕事」をしているだけであるということが多いものです。それは「マジメ」であればすべて報われるというわけでもなく、自分がどのような境遇にいたとしても、ただ「言われるだけ」のことをしていても、「それがすべて正しい」というわけではないという社会の冷酷さがあるからです。

「自分で考えること」、「自分で切り開くこと」というのは、大人になってからだからこそ必要なものです。大人だからこそ、「自分の人生の舵を自分でとる」ということが必要で、ただ、学生時代にはそのような「自主性」、「自分で完結させる」ということのための「機会」が貴重なのです。数少ない機会のなかのひとつとして、「文化祭」があるということです。

学校の「成績」と「自主性」はまったく別のものです。いくら成績がよかったとしても、それは「与えられた課題」をこなしただけなのかもしれません。いくら勉強ができて、成績が良い人であっても、それは「誰かが用意したもの」をクリアしているだけに過ぎません。人として本当に大変なのは、「どのように生きていくのか」ということです。どのようにして生き、なにを自分の生涯の「糧」にするのか、なにを自分の「誇り」にするのかということを考える必要があるのです。

それは「正解」はない「問題」です。どのような方程式にも当てはめることができないもの、誰の、どんな経験を聞いたところでどうしようもないもの、自分のその「選択」の「答え」は、数年後、十数年後、或いは数十年後にしかでないものなのかもしれません。そのような「選択」をするには「精神力」が必要です。

本当の「自主性」というものはそのような「精神力」によってもたらされるものであるということです。「精神力」は「学ぶ」ものではありません。強いて挙げれば「場数」が必要なことなのです。そのような「場数」は、学生のときにはなかなか経験できないものなのです。ただ、「文化祭」はその数少ない「本当の自主性」を磨く貴重な機会です。なにをやるにも自由、危険なことでなければ、クラスメートが納得したものであれば、自分たちのチカラで実現できるという「自由」があるのです。

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