人を楽しませようとする献身
文化祭の「出し物」は、ただ作ればいいというわけではありません。それを鑑賞する人、楽しむ人がいてこそ、はじめて成立するものなのです。誰かに見せるという責任が、すべての展示物、出し物にあるのです。
自分が作った何か、自分たちで用意した「何か」を、誰かに楽しんでもらおうとすることはとても有意義なものです。特に学生時代にはそのような「経験」がなかなかないものです。学校で作るもののほとんどが「先生」に対して提出する「課題」のようなものです。それらは学校の教育基準で評価され、その評価はそのまま「成績」として記録され、後々に残ることになります。
学校に通っていると、特に中学生以上の年代であれば、「学校の成績」というものは自分の存在理由そのものであるように感じられるものです。そこで学んでいることのすべて、そこで関わっていることのすべてが「成績」として自分の身に跳ね返ってくるのです。そして、それは誰が見るのかというと「親」です。親はいつの時代も自分の子どもの成績を気にするものです。学校の成績が良ければその後の人生が安泰になるということは決してないのですが、それでも親は子どもに「いい成績」を取って欲しいものです。
ただ、文化祭で作るもの、用意するものはそのようないわゆる「学生として評価される」スームから外れたものになります。「他に見せる人がいる」ということ、しかもその評価は学校の成績のように「絶対的な基準」などはないということ、「楽しいか、そうではないか」、そして「良いと感じたか、つまらないと感じたか」の二択でしかないということです。そして、それは瞬間的に判断されるものであるということです。瞬間的に判断されて、瞬間的に「受け手」の中で答えが決まってしまうということです。
だから「作る」ということは素晴らしいのです。同時に恐ろしいのです。時間をかけて作ったものが「良い」とは限らないということ、どれだけ時間をかけても良くないものは良くない、しかも、それは人によって違うのです。それが「創作」の素晴らしさであり、「残酷さ」でもあります。そのような経験は通常の学生生活では得ることができない「経験」です。
さらに、文化祭での出し物、創作物のすべてが「人を楽しませなければいけない」ということもありません。自分たちが納得すればそれで良いというオチもあるのです。自分たちだけにわかる、自分たちだけの作品、自分たちが納得すれば、満足すれば、それで良いという作品もこの世にはたくさん存在します。
人が何を見たいのかなどということは「そのとき」で違うのです。そこに迎合するのか、あくまでも自分たちの「意志」を貫くのか、それが分かれ道です。中途半端が一番いけません。むしろ、「知らないものを望むこと」は、人には出来ないのですから、人に対して「こんなものがあるよ」と薦めることも可能なのです。そのような「選択」もすべて、自分の、自分たちの責任であるから「面白い」のです。