他のグループの作品を認めるということ
文化祭の主役は「学生」です。外部に開かれている文化祭であるとしても、その中心にはその学校の「学生」がいるものです。「なんのためのイベントか」と問われると、文化祭は「教育」の一環であるということです。
大人になってみると、「学生時代は取り戻せない」ということが実感としてわかるでしょう。学園生活、学校生活というものは一見単調に見えるかもしれませんが、その先にある「社会」はもっと単調です。毎日同じ会社に通い、毎日同じ仕事をし、日々の糧を稼ぐ必要がある、そして社会的責任もある。好きなことをしたくても、仕事に追われるばかりで、自分のための時間などは作ることもできないということが多々あるのです。
大人には大人の楽しみもあります。大人でいることを存分に楽しむ人もいます。たまの休みに思いっきり羽を伸ばして、自分の本当の楽しみというものを守り続ける人もいます。ただ、それらもすべて「自己責任」であり、自分が稼いだお金をすべて趣味のために散財したとしても、自分や家族の将来のために散財したとしても、すべては大人である自分の責任です。
ですが、「学生」は違います。自分の「責任」ではなく、「保護者の責任」、「学校の責任」がまだ認められる身分です。そのような庇護されている身分でいるということ、まだまだ学ぶことがたくさんある、まだまだ覚えられることがたくさんあるということが、本人にとっては不条理に感じられるかもしれない「ルール」に縛られた学生の「特権」です。
学生であるということを一言で言い換えると、「無限の可能性がある」ということになるのではないでしょうか。そのような学生同士というのもまた、互いに及ぼす影響が大きくなる時期です。人は人、自分は自分と割り切ることができるのは大人の特権かもしれませんが、そうではなく、同輩の言うこと、やっていること、持っているもの、そのようなものそれぞれを自分の身に置き換えて考えてみたり、自分の可能性として捉えてみたりすることができるのが「学生」の特権でもあります。学生でいること、学生の身分でいることは、学ぶ余地が大いにある、自分を変える可能性も大いにある、将来なりたいものに、何にでもなれる、やりたいことはすべて実現できるということなのです。
文化祭で花開く学生の「感性」には目を見張るものがあります。「若さ」というものはそれ自体がエネルギーです。そのエネルギーを互いに披露しあうこと、そのエネルギーを互いに高め合うことで、大人からは見えない次元で、それぞれを認め合い、高め合うこともできるのです。その経験は必ずその後の人生において「宝」になるものであることは間違いありません。「切磋琢磨」という言葉は、学生にこそふさわしい言葉であるということです。学生時代というものは人生のなかでもそのようなとても貴重な経験ができる期間であるということです。その頃感じたこと、考えたことは、もしかすると「一生の宝」になるかもしれないのです。