外部に開かれた文化祭
文化祭は、何も学校の中だけで行われるものではないかもしれません。学生同士が高め合う、認め合うというイベントでもあるのですが、その文化祭自体が「外部」に開かれたものになっている場合も多いものです。
「外部に開かれる」ということは、「一般」の閲覧ができるということです。その時点で、その文化祭は「社会」に対するイベントになります。普段学校の中で学んでいる学生が、教師、そして同輩との関わりで済んでいる学生の人間関係、そして日常が、一時的に社会に開かれる瞬間でもあります。人が集まるところにはそのコミューンの中だけでの暗黙の了解のようなものが生まれます。人が集まるところには、そのコミューン、人間関係の中だけでの「良し悪し」、「価値観」が生まれるものです。
それを少しずつ広げていくと、「地域社会」、「都道府県」、「国」、「大陸」と「場所」に関する違いのようなもの、差のようなものはどうしたって生まれるのです。その最小単位として「学校」、「学年」、「クラス」、「友達」があるのかもしれません。そのような「人」の集まりが生み出す文化やルールのことを総称して「社会」と呼ぶのですが、「学校」という閉ざされた社会が外部の社会と混ざり合う機会としての「文化祭」であるのであれば、そのときに自分たちが考えていること、学生なりに感じて表現したことか社会の役に立つのかということを考えるいい機会になるかもしれません。
学校と地域の関わりというものは繊細なものです。その土地にある学校は変わらないのですが、そこに通う「生徒は年々変わる」わけです。これが「企業」であればいいのです。これが企業であれば、そこにいる「人」は退職や入社などで定期的に循環するとはいえ、学校よりもはるかに長いスパンで固定されることになります。その企業の風土は経営者がつくるもの、そしてそこで働く人がつくるものなのでいいのですが、これが学校であれば確実に「世代」は変わっていくものです。世代が変われば文化も変わります。その地域のなかに在る「学校」が持つ風土や文化のようなものが、年を経るごとに変わっていくということなのです。
優秀な生徒が集えば優秀な学校として認知されるでしょうが、その逆もあります。文化祭を外部に対して公開するということは、「今私たちの学校はこのような状態です。このような生徒が通っています」と宣言することでもあります。その学校の「顔」として、ひとりひとりの生徒が存在するわけですから、地域の方に対して失礼な態度をとるわけにもいかないのです。
それが「公開される文化祭」です。自分たちが考えていること、発信したかったことが社会にどう捉えられるのか、どう受け止められるのか、そして自分たちは社会からどのよう見られるのか、それを推し量ることができるイベントなのです。自分たちだけが楽しむのではなく、自分たち以外の人を楽しませる、認めてもらう。そのようなイベントなのです。