学生時代の思い出として、文化祭が頭に浮かんでくる人も多いでしょう。「ルール」ばかりの学生生活のなかで、「文化祭」は一際輝く素晴らしい思い出です。
「文化」というのは「カルチャー」のことです。カルチャーとは「人」がただ生きるだけではどうしても物足りなくなってしまった末に生み出す、創造性の具現化です。人が創造性を発揮するのは何かを「生み出したい」、「残したい」と自然に感じるからであり、それはなにも特別な才能を持った「誰か」の特権ではないということです。誰もが何かを作る才能を持っていて、誰もがそれを発揮する権利を持っています。
それを学生生活のなかで実家できるイベントが「文化祭」なのです。文化祭というのは生徒の「自主性」を重んじるイベントです。生徒の自主性というものは直接的な「指導」で得られるものではなく、そのようなものが「発揮される環境」を与えることで、「発現させる」ものであるということです。そのような「環境」のもっともわかりやすいものが「文化祭」なのです。
「芸術性」、「創作意欲」というものは強制的に引き出すものではなく、また理屈で押し付けるようなものでもありません。生徒が自分で作りたいものを見極め、自分が欲するままに何かを表現することが大切なのです。それはどのような「教科書」を用意しても、どのような「授業」を行ったとしても意味がないもので、「実感」として、自分の「体験」とあいて生徒が納得して臨むことができなければ得られるものではないということです。人間は誰もが「作ること」、「創ること」が好きな生き物です。そのような「環境」を与えることで、そのような自分が「作りたいもの」を納得して自分で作り出すことができるのです。
それが「文化祭」の「意味」です。全ての人の中にある「創造性」を育てるために、文化祭は存在しているということです。誰もが持つ創造性、誰もが持つ「クリエイティビティ」、それを発現させるためのイベントです。「自分たちで考えた」、自分たちで用意した」、「自分たちで作った」、そのようなことが「実感」として、「体験」として、心に残っているからこそ、その後の人生でも「文化祭」が記憶に残っているのです。自分がしたいことができた、自分がしたいことを、工夫しながら達成できた、そのような充足感が、「経験」としてその後の人生の記憶の「宝」として、あり続けるのです。
そのような記憶が、いつしか「創意工夫」の実績として、「自信」として、自分のなかに残り続けるのです。だから文化祭は楽しいのです。さまざまなことを自分たちで考えて「カタチ」にすることが、楽しい記憶、充足した記憶として、ずっと残るから楽しいのです。それはどんな優れた教師も、どんな優れた授業でも、与えることができない貴重な体験です。そのようなものを生徒に与えることができる「環境」こそが、そのような「思い出」と「自信」を生み出すのです。